紅茶の昧 |
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昭和42、3年、私が物理学科の学部学生だったころに、当時の学生新聞に載った次のような寺本先生のインタビュー記事を友人から教えてもらった。寺本先生の学生時代、物資不足の時代ということもあって友人の中には学資稼ぎにアルバイトに精を出さざるを得ないものも多かった。その結果勉強不足となった友人のためカンニングをさせてやったが、折り悪く見つかってしまい、寺本先生は大学を辞める決意をして、その挨拶のために教授の元に行かれたという。紅茶を振る舞って下さった教授は、「ところでどうです、また勉強しませんか。」と退学の翻意を促された。その時の紅茶の味を今の学生達にも味わわせてやりたい、というものである。 3回生の時の先生の統計熱力学の講義は一つのカルチャーショックだった。壮大な学問の講義をする教授がこんなにも若くスマートである、それでいて板書も丁寧でそのまま教科書になるではないか。その上先生自身は優しく、しかもバレーボールでスパイクを決めたりしている。学問的には、あの複雑きわまりない生命現象を物理学でもって解明しようとする夢とロマンのある生物物理を切り拓いておられる。こうして先生の魅力に惹かれ4回生の時には生物物理のゼミを取り寺本研にも出入りさせてもらうようになった。 そのころ寺本研は多士済済で妙に明るかった。身分とか学年とかに関係なく、みんながおれこそ一番正しいとばかり自分の意見を述べる、すると誰かがすぐ反論するという感じで「京大の自由の伝統とはこうなんだ。」と私の心に焼き付いた。これもすべて寺本先生のお人柄のなせる業だったのだ。 大学院の入試で生物物理は人気が高く、定員二名のところ志望者は多数いた。私の成績はというと物理科全体の中でようやく滑り込めるというものだった。同期の中島、山村両君及び工学部からの今福さんは高得点ということで私の生物物理への進学は断念せざるを得ない状況だった。案の定寺本先生に呼び出されて、「(光物性の)中井教授が、来ないかと言っているが、田中どうする?」と言われた。私は「はあ・・。でも先生のところに来たいんです。」と答えたように記憶している。すると先生はいとも簡単に、「よし。わしのところへ来るか。」と言って下さったのである。こうして私は先生の温かい紅茶を飲ませていただいたのである。 すぐ後から大学紛争が始まった。研究室はその政治的な意見の違いから分裂した。寺本先生は新設の生物物理学科に移られることになった。大学院生は(我々新人も含めて)各自の希望で生物物理学科移るか物理学科に残留するか決めればよいとなった。学問的には元より寺本先生を慕って生物物理を学ぼうとしたのだから先生について行きたいと思った。しかし当時の私は、そうすることは寺本先生の紅茶を二杯までも飲むような罪悪感を感じてしまった。私は物理に残ることを選択した。現在の私ならこうしたことの方が飲みかけの紅茶を「もういいです」と断ってしまうような愚かなことに思えるのだが。 私は、先生から習った統計力学はもうすっかり忘れてしまったが、講義の中で一番印象的だったランダムウォークを地で行き、物理もやめて今は精神科医をやっている。私の精神療法の基本は、受容的支持的姿勢でありこれは先生に飲ませていただいた「紅茶の味」のせいかしらと思ったりしている。 |
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